日本の兄弟/松本大洋 1995


終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため / 終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 一人ぼっちで泣いた夜 / 終わらない歌を歌おう キチガイ扱いされた日々

ザ・ブルーハーツ「終わらない歌」

最近「竹光侍」で評価著しい松本大洋初期短編集。
昨日押し入れを整理していたら奥から出てきた。
10年以上前に買ったらしい。
他の、松本大洋の長編でも使われる様々なテーマが盛り込まれた好短編集だと思うんだけど、かなり散文詩的と言うか文学的であまり内容についてきちんと考察している記事をネットでは見かけないので(ふわっとした書き方のものばかりで)書いてみたい。
読むのも久しぶり。


【何も始まらなかった一日の終わりに】
松本大洋作品を読むといつもブルーハーツを思い出す。
【チャリ】編の主人公チャリは周囲から「変人」扱いされていつも自転車に乗っている。
周囲に溶け込めない異物。
クソッたれな世の中に背を向け自分の中のモラトリアムに生きる。
外の「世界」を見ず自分の「セカイ」に生きる。
それは逃れられない「死」に怯える小学生ハルオにも言える。
人は死を意識しない。
仕事や学校という「現実」に目を向けて生きて、リアルに「死」を思わない。
身近でありながら身近とは捉えていない「死」
明日死ぬかも知れないから、と考えて誰も生きてはいない。
死ぬかも知れないのに。
メメントモリなんていう達観を得られない「バカ」なハルオは死に怯え、だから学校にも行かず街をさまよい歩き、詩人や哲学者のようにレゾンデートルを考え、死に怯え逃げ回る。
【祭り】編の老人は木の穴に入り込み、そこに自分の過去を観る。
これは「不思議の国のアリス」だし、死ぬ間際の走馬灯だとも読める。
老人は既に死を受け入れている。
生と地続きの死。目の前に迫るリアルなタイムリミット。
だから老人はハルオに
「死んだらお前は何処へ行く?」
と聞かれ、
「帰るよ。神に借りた五体を大地に返したらあの世へ帰る」
と答える。
それを聞いたハルオは
「わからん」と答え老人はその答えを褒める。
わかる必要はない。人生はまだ少しある。
次短編「LOVE2 MONKEY SHOW」にもある「they that live longest must die at last」
いつかは終わりを迎えるとしても、始めから終わりを思う必要は無い。


【LOVE2 MONKEY SHOW】
テーマは死と愛。
それを【何も始まらなかった一日の終わりに】のような詩的ではなくカリカチュアライズした形で描いた短編集。
己の身を愛するワニに捧げる事によって昇華した男の話。
洗濯の水より、シェーより小さな死。
愛と命、プライオリティの問題。
生きるとはなんなのか。
愛を捧げる意味は。
問いかけだけがさまよう。


【闘】
これもシンプルな短編。
殺し合いをする戦士二人。
意図的に挟み込まれた、それを静観する動物。
この温度差、命の価値。
必死で争い、奪う命も当人にとっては大きくても他者にとってはどうでも良い。
ましてや他の生き物には尚更。
ディスカバリーチャンネルでライオンがガゼルを食らうのを観ているのと大差ない。



【ダイナマイツGONGON】
これと同じテーマ性は長編「ZERO」にも見られるし、後の「GOGOモンスター」にも見られる。
天才であるが故の孤高と孤独、それに対する答えとしての「愛」
ゴリラとクマの天才ライダーの姿は「天才=一般人とは違う生き物」のメタファーとも読める。
同じ土俵で戦っても素養も素質も違う。違う生き物。
ボクシング漫画「ZERO」の主人公五島雅は天才であるが故誰にも理解されず、孤独のまま物語を終える。
愛も無く、何もない、ボクシング以外は何も持たないチャンピオン。だから「0(ZERO)」
この短編では最後、愛する五郎と一緒にゴンゴンはジャングルで暮らす。
愛を知らず孤独のままで終わったクマのミーシャは敗北してしまう。


【日本の友人】
己の「セカイ」に生き、半裸で街を歩き、わめき、人を殴って金を得る主人公。
それを見る傍観者。
傍観者は片目を閉じて主人公を見る。
これは「両目で世界を見ない」事で、片目を閉じて「セカイ」に生きる主人公を見ている、と言う事を示している描写なんだが(書き方が難しいな。。)通じないと仕方無いが、読むとわかると思う。
最後、傍観者は主人の人形を線路に投げ捨てる。
これによって主人公は傍観者の事を意識して向き合う事になる。
友人、てのはそう言う存在じゃなかろうか。


【日本の兄弟】
表題作。
自分たちの「セカイ」に生きる兄弟。
しかし兄弟はリアルな「世界」で見事な花を咲かせられる。
天才であるが故の孤高と孤独。
しかし天才は天才だからこそ、この「世界」に希有な才能を発揮する事が出来る。
例え天才で、孤高であろうが、孤独であろうが。兄弟で「セカイ」を共有していれば「孤独」ではない。
天才にしか見えない「セカイ」
研二は最初リアルな「世界」に生きる子供として登場し、その天才の「セカイ」を受け入れ共にそのセカイへ行く。
可能性はまだ開かれている。


【日本の家族】
こちらは「世界」に生きるヤクザ岡田のお話。
世間のしがらみ、やり場のない憤り、暴力。
「鉄コン」の鈴木に繋がるキャラクター。
話の最後、岡田は岡山に行く事を決断する。
それは舎弟の田舎の話を聞いたからなんだが、これまでの短編と違い「逃げられないほど、どっぷりと浸かったゲンジツ」がそこにある。
もしその先(岡山)にモラトリアムがあるのであれば描き方も違ったものになる。
若頭 立花のヒザをチャカで撃ち抜いて、その勢いで相手方の親分 大田のところへ乗り込んでみたのに懐柔されてタマもとれず。イヤになるくらい世の中は上手く回ってて、自分だけがボタンの掛け違い。
だから岡山へ向かうしかない。
その先に何も無くても。



冒頭にも書いたんだが「竹光侍」は評価されてる。
でも松本大洋は「花男」「鉄コン」や「GOモン」「ZERO」「ナンバー5」や今作を経てきて「竹光侍」に行き着いた。
表現技法やテーマ性。
様々な問い、その答え。
現時点での松本大洋の到達点。
だから暴力や死や愛の先で「竹光侍」は達観を得た話だと思う。
これまでの長い、その達観を得るまでの長い道程。
それを読んでから「竹光侍」を読むとまた違った光景が見えると思う。
もし他の作品が未読なら一読を勧めたい。
竹光侍」にも劣らない物語がそこにはあるから。