パビリオン山椒魚/2006日本


まぁこんだけ良い素材を使って、ここまで味を落とせるってのはある意味スゴい。
前半のハードボイルドかつエキセントリックな展開は王道だけども常識の範囲内。
映像も適度に醒めてて、菊地成孔のジャジーサウンドもマッチしていてそれこそ林海象チックに『遥かな時代の階段を』な展開をして行けばこの出演者の豊富さといい、駄作にならなくてもカルトにはなるような素材だったのに。
ただ単にオダギリを映して、菊地成孔のサックスを鳴らしてるだけで充分画になるんだから。


前半のオダギリの中途半端なハードボイルド探偵みたいなキャラクターとか、日活映画みたいな津田寛治の殺し屋とか、香椎由宇の圧倒的な美しさとかアンナ・ギャスケル的な暗喩なエロティックさとか。
KIKIとキタキマユのアンバランスな姉妹像も魅力的(もっと傲慢でも良い)だったのに。


結局、世界が『麻生祐未が殺された』ところで分岐してんでしょう。

『本物とか、偽物とか、どっちでもいいの』

って台詞が暗示してる。
その後の話は露骨に『香椎由宇視点のリアル』と『オダギリジョー視点のシュール』に話が二つに分岐し、それが入り交じりながら展開して行くって構造は、理解出来るんだけどそんなに面白さが無い。
特にシュールな方の話がどうしても『シュールを狙ってみました』って感じがしてどうにも。。
場末の未熟な劇団主宰の暗黒舞踏を見るような痛々しさがヒシヒシ。
シュールはシュールで良いんだけども、それならもっと思い切って感覚に徹してみても良いのに中途半端に頭で考えてシュールさを狙ってるのが厳しい。過去の色々な....鈴木清順意識してたり(それでも前半は良いんだけど)ルキノ・ビスコンティだったりとか意識してんのは別に良いんだけど、それが巧く無い。
笑えないしスベってるし、『理解出来ないモノは理解しないでそのまま受け止めて楽しめば良い』とか無責任な事言われても、そんな自己満足な自慰行為を見せられてどーすりゃ良いんですか。
映画マニアのコアな自慰ほどタチの悪いものは無い。


それで楽しめる人はセンスが無いか、マゾヒストでしょう。


香椎由宇視点』が現実逃避してシュールになる、ってんなら理解も出来るんだけども。
逆にオダギリの方がシュールになっちゃうってのは『監督がそうしたかったから』としか読めなかったし、確かにシーン毎に必然的な出演者が欠けてたり、現れたりするのも夢想の中の話の様でもあり、現実の話の様でもあり。
後半、オダギリが屋敷に乗り込んで行くとこは絶対的に虚構なんで、あの『視点』が夢想だってのはよく解るけど。
全部虚構でも、現実でもどっちでも良いんだけどもそれって結局『夢オチ』って事になりかねない。


以前、TVドラマの『時効警察』でケラリーノ・サンドロビッチが演出した回は催眠術がモチーフでかなりシュールな展開をしてたけども、あれは本筋は本筋として成立してたし、ギャグも決まってたし、シュールな部分もきちんと狂気を孕んで機能してたし、ああいう構成だったらこのキャスティングで満点だったのに。
あぁ、惜しい。
オダギリと香椎が結婚する切っ掛けになった、ただそれだけの価値しか無いだろう映画。
生のまま食ったって美味しい素材が、調理したせいでどうしようも無くなってしまった。
そんな感じだろうか。


本物とか、偽物とか、どっちでもいいの。
でも自己満足だけで映画って撮っちゃ駄目なの。