新・餓狼伝〈巻ノ1〉秘伝菊式編/夢枕獏 2006


「死ね、伊達。ここで死ね」
わかった。
「わかった」おれは言った。
「川辺よ。ここで、死ぬ」

夢枕獏餓狼伝シリーズも実に長い。
だから時代とか色々と人によって違いも出て来る。
個人的にはリアルタイムで最初から読んでて、格闘技界の動きもリアルタイムで見てきた。
1985年に第一巻が書かれ、その当時は格闘技団体と言えば84年に立ち上がり85年に崩壊したUWFが異端児であり、一般社会がまだ「総合格闘技」と言うものに対する認識すら危うかった時代。
プロレス主体の業界の中で「最強とは何か」と考えバーリトゥードスタイルを追求して行った格闘技バカ夢枕獏氏のライフワークがこの「餓狼伝」だとえいる。
しかし実際、社会の流れは早い。
夢枕獏氏が「餓狼伝」を発表する間に、格闘技業界は動き続け、UWFインターは新日とガチンコマッチをやって全面敗北し(安生は長州力に殺人フルコースを決められ)、


ちなみに、この時の試合をしったかぶりでブック通りの進行と言う人も多いんだが、当時の業界地図を考えたらそんな必要性は一切無い。新日がガチで負けてやる理由は一切無かったって言う。
だからこそ大トリに看板背負った高田が出てきたんだし、だからこそドラゴンスクリューとフィギュア・フォー・レッグロックで破れてしまったし、だからこそこの後Uインターに有利なブックの書かれたリマッチが行われたんだし。


さて本筋に戻って。。
リングスは解散。K-1だけが一人勝ちを収め、プロレスは放送枠を深夜へと移行させられ、インディーズプロレス団体は次々倒産、海外ではUFCが隆盛し、93年のUFC1でホイス・グレイシーが優勝し表舞台に登場する。
その時代の流れの中、餓狼伝は一般の選手もグレイシーを習うようになった99年あたりになってようやく本編にグレイシー柔術が登場する。
一昔前なら夢のようだった「格闘技団体とプロレス団体のバーリトゥードマッチ」なんてものを夢見た夢枕獏氏が作品の中でぶちあげたりするのに、作品の流れより現実の流れの方が早く、今や異種格闘技戦は普通になってしまっていて、だからこそ小説内のエンターテイメントとしてのギミックのスクネ流なんかを出さなきゃならなかったんじゃなかろうか、って気がする。
少なくとも餓狼伝の前半を読んでいてスクネ流などへの前フリなんかは一切見られないし、もし現実社会で未だにUFCがなく、総合もプロレスも鎖国状態だったら餓狼伝にスクネ流は登場しないまま夢の格闘技大会だけで書かれていたかも知れない。
前フリはこんなもんで。。。


で、冠に「新」の付いた餓狼伝
中身は引き続き。
スクネ流に関する云々と東洋プロレスのバーリトゥードマッチ大会。
今回の読みどころはなんと言っても「マカコvs伊達潮男」。
グレイシー柔術vsプロレス」であり「才能ある若手vs経験を積んだオヤジ」とも読み替える事が出来る。
夢枕獏の格闘シーンは夢枕氏独特の「行間」と「タイポ」のリズムで書かれ、スピードが欲しい部分ではセンテンスを短く切り、スピードを遅くしたい部分ではセンテンス長く、しかし句読点でリズムを付けてある*1
細かいギミックやテクニック。観客を沸かせるテクニック。
勝負に負けて試合に勝つのも実際的な「即物的な若さ」と「円熟した老い」の差とも見れる。
グレイシーとプロレスが戦えばグレイシーが勝つのが当たり前かもしれない。
しかしプロレスは弱い訳じゃあ無い。
観客が沸き立つ訳じゃあ無い。
ガードポジションで乗っかって、下から相手を抱え込んでこう着状態で「上になってたから判定で勝ち」なんていう試合の存在って何だ?って言う。
ただ勝てばいい、そう言う試合の存在への疑問符。
伊達潮男っていうまるで夢枕獏の写し身みたいなキャラクターが、手を替え品を替え、ギミックを使い、老獪な作を練り、若く才能ある柔術使いのマカコと対決する。
不格好でも、汚くても、勝てなくても、やれる事は全てやりきる。
そして観客が沸き立てば、それは勝ちって事なのかも知れない。

*1:旧作「カエルの死」を読めば氏の言葉へのこだわりが解る