さよなら妖精/米澤穂信 2006

そしておれは思う。
向こうからこちらに来られるのなら、
こちらから向こうに行くこともできるに違いない。
ひょっとするとそのことによって、
おれはただ円の中にいるのではなくなれるのかもしれないのだ。

1991年4月。
雨宿りをするひとりの少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。
遠い国からはるばるおれたちの街にやって来た少女、マーヤ。
彼女と過ごす、謎に満ちた日常。
そして彼女が帰国した後、おれたちの最大の謎解きが始まる。
謎を解く鍵は記憶のなかに――。
忘れ難い余韻をもたらす、出会いと祈りの物語。(東京創元社HPからコピペ)


日常の謎』系ミステリ、については以前同じ米澤穂信の『氷菓』の時に(過去記事)色々と語ったんだけども、今作ではもっと明確ではない..つまり『謎』と言うよりも『齟齬』とでも言うような細かなすれ違い、と言うかユーゴから来たマーヤの文化との認識の違いや、改めて日本文化を見返して説明する事の難しさ、を主にした言語的、文化的な齟齬や日常に起こった小さな齟齬を含む事象を使って小さな『謎』を構築する、と言った作りがいわゆる『日常の謎』系ミステリとは一線を画するものだと思う。

多くの感想で『青春ミステリ』と評されているのは、実に理解出来る。主人公の『マーヤの元へ行かなければ』という『外部への憧れ』はマーヤの出現を切っ掛けに主人公の中で変化したルサンチマンの形態なんでしょう。
時間が経ち、多くのものが激しく変化し、すっかり姿を変えてしまう。人と人との関係も、位置も、距離も、気持ちも。例え少しの時間でも、過ぎれば全てが『過去』になり変化するには充分な理由になる。
そんな中、主人公の思いだけは変わる事無く、より一層強くなるのは恋なのかも知れないし、やはりルサンチマンなのかも知れない。思い続ける事で強くなる『想い』と言うのは矢張り存在するし、それは自己の中で完結せず、行動によってしか解を見出せないからだろう。


さて、堅苦しいのはこの辺までで。。

まぁ相変わらずこの作者っぽく地味と言えば地味なんだけど不思議に余韻が残る小ネタ満載ミステリ、というかミステリと呼ぶには強い『謎』は無いのでそういうものを期待すると肩すかしを食らうかも知れないけれども、もし『叙情系ミステリ』なんてジャンルがあったとしたら丁度ぴったりかも知れない。
ミステリ、と言うよりも『謎のある文芸』って感じで。
ブンガクじゃなく文芸。


生き残った人々の物語り、と言う感想をネットで見かけた。
確かにその通り。
生き残った人々には時間が存在する。
だからこそ変化する。そして去った人、死んだ人には時間が存在しない。
だからいつまでも心の中に、変わらず生きている。
誰も彼もがすっかり忘れ去るまで。
誰も彼もが忘れ去られるまで。




哲学的な意味がありますか?


関連過去記事:
インシテミル/米澤穂信 2007