グラン・ギニョール城/芦辺拓 2006


グラン・ギニョール城 (創元推理文庫)

名探偵ナイジェルソープは欧州の古城《グラン・ギニョール城》に招かれたが、嵐の夜を境に、閉ざされた城では次々と惨劇が起きる。
一方、帰阪の中途で怪死事件に遭遇した森江春策は、調査を進めるうちに探偵小説『グラン・ギニョール城』の存在に行き当たる。やがて被害者宅に掛かってきた謎の電話の主が、森江にこう囁いた。
「グラン・ギニョール城へ……来たれ」
虚実混淆の果てに、森江が見出した戦慄の真相とは?


社会派ミステリが主流となっていた当時の日本ミステリ界に於いて『古き良き』謎解きを主体とした『本格』ミステリの王政復古の大号令として島田荘司が提唱した『新本格ミステリ』
その声に綾辻行人我孫子武丸有栖川有栖法月綸太郎らなどがデビューを果たし、それがいわゆる『新本格第一世代』と呼ばれる作家たちで、それに次いで様々な作家たちが排出され、現在のミステリ界が(隆盛を極めているかどうかは別として)出来上がったとも言える。

しかし清涼院流水佐藤友哉西尾維新舞城王太郎らの『新本格以降』の作家が(ミステリ番外地『メフィスト賞』を中心として)出て来るに際して『古き良き』本格ミステリはすっかり形を潜め、新世代の..ラノベとの融合や『萌え』と言ったような要素すら取り込み『現代』ミステリはカンブリア紀の生物のような異形の進化(いわゆる『セカイ系』など)が溢れ『正当』で『古典』なミステリの形式は排除されつつあるようにも思える。

ベースとして黄金期の『本格ミステリ』を踏まえるのでは無く、本格ミステリを踏まえて書かれた『新本格』をベースに書かれるミステリ。それは最早『本格』としての体裁すら無く(作品の優劣では無く)ミステリ、と呼べるかどうかすら怪しい異形すら存在しうる。
コピーのコピー。


さて、芦辺拓と言う作家はカー、クイーン、ルブラン、セイヤーズら古き良き『本格』を意識する、と言う意味で当初に島田氏が提唱した『新本格宣言』に近い信念の作家だと思う。正当、と言えば正当で、ただし真っ当に『本格』を意識しただけの作品を書く訳じゃあ無い。

今作でも『作中作』と『現実』がやがて浸食し合い、一つの世界を構築する、って言う意味で著者も後書きで書いてるんだけれども『匣の中の失楽』『虚無への供物』『ドグラマグラ』なんかを意識させるようなメタミステリ、の雰囲気を持ちつつも骨子の部分は断じて『メタ』では無く、結局のところ正当な『新本格』だってところが面白い。

西洋を舞台にした小説『グラン・ギニョール城』と現代で起こった殺人事件。それが互いにシンクロしつつ、って言う展開は笠井潔『哲学者の密室』や山田正紀『ミステリオペラ』なんかを連想させたりもするし、だからと言って類似している訳では無くって矢張りこの著者独特の『正当』なトリックが使われているところなんかは芦辺っぽい。
....まぁ言っちゃえば小粒。

トリックもまるで古典ミステリのような古典さで、その辺も古典を意識して書きましたって感じなのかも知れない。確かに『本格』を読んでいる気分になって来るし、創元文庫ってのも翻訳物に感じが近くって絶妙。
本格ミステリの雰囲気までも再現しました、って意味ではスゴいのかも知れない。だからマニア評価は高いんすよね、これ。
いわゆる現代の『セカイ系』に対するアンチ。


まぁ今どきの『ミステリ読んでます』って人は今どきの作家しか読んでなくって昔の本格ミステリなんて読んでないんだからそー言う人はこれでも読んでみてよ、って感じなのかも知れない。
確かにクイーンだのカーだの読んでなくたって今どきのミステリを語れるもの。


言っちゃえば『現代ミステリの主流を占めつつあるセカイ系や『本格』を骨子として持たないミステリ作家たちに対るアンチテーゼ』作品だと思えた。
ミステリマニアにはなかなか面白く読めるかも知れないけれども、でもそうで無い人には退屈かも。
最後のオチの遊びなんかは海外ミステリを全然知らない人には『???』って感じだろうし。
万人受けする読み物ではないと思う。