カナリア/2005日


歌を忘れたカナリア象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す

1995年。
地下鉄サリン事件を引き起こしたとされるオウム真理教の宗教施設サティアンに踏み込んだ機動隊は猛毒のサリンガスを警戒し重装備の上、片手には檻に入ったカナリアを連れ。。。


以下、自己流の解釈を観たままに羅列しておりますので。。
なにとぞ。


養護施設を脱走した12才の少年、光一(石田法嗣)。
彼は母親に連れられ妹と共に新興宗教ニルヴァーナ』に入信させられていた。
しかし教団が犯罪に関わり、司直の手によって教団は解散。
母親は行方をくらまし、妹は祖父の元に預けられる。
しかし光一は祖父が預かることを拒否し、施設に送られていた。
光一は、偶然助けた少女 由希(谷村美月)と共に引き離された妹と母親を求めて旅をする。


G.V.サントはコロンバイン高校の銃乱射事件をモティーフに「ELEPHANT」を撮り、内田裕也豊田商事社長殺害事件やロス疑惑を「コミック雑誌なんかいらない」に、浅間山荘事件から高橋伴明は「光の雨」、帝銀事件から「日本の黒い霧」を松本清張が書き、そして山本直樹は「ビリーバーズ」をオウム事件を踏まえて描いた。
...事実は記憶から薄れ、やがて風化する。
しかしフィクションは世界と平行し問題を提起する。


【独善的な視点】
光一の母親、岩瀬道子(甲田益也子)は、息子と娘を連れ教団に入信する。
その言を劇中から拾うと
「来世、来々世でもお前達(光一と妹)に会いたいから教団で働く」
と言う台詞がある。
これは道子の信じる入信した理由で、同時に親子が教団内で離れて暮らす事への言い訳でもある。
では道子が入信した切っ掛けは、と言う事になると映画中での道子の父親..光一の祖父が光一の妹を指して「今度は失敗しない」と呟かせるように、つまり道子の父親は娘を抑圧し、支配下に置き、だからこそ、その束縛から道子は逃れようと入信する、と言う経緯が台詞から知れる。


道子の父親からすれば、自分の思い通りに娘を抑圧し、しかしその気持ちを察せず、独善的に支配し、娘が入信した事を知って『お前には人間としての価値すらない』と罵り、教団が解散した後は『娘の代用品』として孫を引き取る。
勿論彼からすれば全て「娘の為に」という理由付けでの行動な訳だが実際のところ独善でしか無い。
道子からすれば「入信し教えに従えば輪廻転生しても子供に会える」という「父親の束縛から逃れる為の言い訳」が行動の元にある。
しかしその実「父親の拘束から教団の拘束に変わっただけ」という依存の構造は変わらず、しかも最終的には自ら死を選び来世で子供らに会う事すら放棄し、自分の安楽な道を選ぶと言う独善的な行動をとる。
皆、自分にとって都合よく世界を回そうとする。


援助交際白書】
由希は最初、援助交際に乗り込んだ車の中で襲われそうになった所を偶然光一に助けられともに行動をする。
父親への怨嗟の台詞が散見され、父親と娘の確執が見えるいまどきの「女の子」と言った属性。
そして一夜の宿を求める為に老人に自分の身体を触らせたり、援助交際で金を稼ごうとする感性は同監督「害虫」の主人公を連想させる。
しかし「援助交際」が殆ど成立せず、光一によって最終的に邪魔されるのは「害虫」への回答のような気もした。
その行動は、やがて光一との恋や共犯関係のそれに近しいものになって行くが、最初の時点での「おせっかいな性格」というキャラクター付けは少々牽強付会になっているような印象を受ける。
狂言回しとして必要なキャラクターだろうし、多少強引な仲間の結びつけは映画的に必要なのだろうと思うが。。


【そして少年は荒野を目指す】
光一は、最初母親に無理矢理教団に連れて来られ反抗的で居るが、やがて教団に溶け込む。
溶け込まざるを得ない。
反抗すれば内ゲバにあう。
そして教団が解散し、施設に入れられた光一は脱走する。
光一は例え教団に入信していようとも母親を崇拝し、光一にとっては教団ニルヴァーナの教えでは無く「母の信じる教団」だからこその教団であり正しかった訳で、その母親を侮辱する祖父は光一にとっては「憎むべき敵」でしか無い。
そして光一はドライバーを研ぐ。
武器として。
妹を取り返す為の旅の目的は、同時に母親を捜し出す為の旅でもあり、祖父への復讐の旅でもあるという理由付けがある。
途中出会うレズビアンカップル(りょう、つぐみ)のカップルは光一とりょうが母子のメタファーで、同時に男女の、母親の女性としての属性の象徴だろう、と言う見方も出来る。


通常ロードムーヴィーというジャンルなら「性善説的な一期一会で出会う人々との結び時と別れ」が描かれるのが普通だが、この映画では金や食料に困り身体を売る少女や万引きをしようとする少年が描かれる。
そう言う『リアル』は社会に辟易した少女と社会から隔離された場所で過ごした少年の「社会と二人との絶対的に隔絶した距離」を描いている。
だからこそ二人はかつての教団での知り合いとの共同生活に唯一笑顔を覗かせ「家庭」像を描く事になる。


仏陀L】
光一は由希と共に祖父の元へ向かう。
しかし途中、光一は母親の死を知る。
母性の消失に失望した光一は、祖父の元へ行く事を拒否し自分の中にこもる。
復讐の理由を無くした復讐者。
由希はドライバーを手に(つまり光一の意志を継ぎ)祖父の元へ向かい、祖父と対峙する。
そして第三者的に祖父の(精神的に)立つ位置が独善的であるという理由付けをする為のフラグとして機能する。
「子供は親を選べない。親は子供を選べるのか?」
この台詞に尽きる。


そして光一が、白髪で現れる。
憎しみを以て祖父を害しようとした旅路の果て。。
原動力であった母は自分勝手に死を選択し、残された者の意思など関係も無く、残された光一は「理由」を失い。
黒>変化した白い髪は「解脱」を表現してる。
妹は映画のそれ以外のシーンで一切懐いていなかったにも拘らず兄に抱きつき、光一は(殺意の象徴であったドライバーを捨て)あっさりと祖父を許し、由希と共に祖父の家を後にする。
「すべてを許すこと」
まるでキリストや仏陀のように悟りを開き、魂は浄化されて。
一切衆生の救済。


宗教/社会的な作品でありながら、最終的には実に宗教的なだけの終わり方をするのが正直『?』であるんだけれど。
社会と、事件の犠牲者と救済の旅、と言う意味では宮崎あおいの「EUREKA」なんかを思わせる構成。
だがここまで露骨に『救済』される作品も珍しい。