ソラニン/あさのいにお 2006


【続きネタバレがありますので自己責任で】

「なんでニルヴァーナを始めたかって言うと、俺には他に何も無かったからだよ。
俺はスポーツが好きじゃなかった。
そう、バンドは俺に残された最後の社会的な存在意義だったんだよ」

KURT COBAIN 89/9/2 NME

「素晴らしい世界」「ひかりのまち」に次ぐ、あさのいにおの初長編。
今度は映画化もされるんだそうで。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090408-00000003-oric-ent
だからこのタイミングで二年も前の記事を挙げてみる。
個人的には、何だかんだ毎回「よしもとよしともに似過ぎ」とか「松本大洋と同じネタやってる」とか文句言いながらも、全作買い続けてる浅野いにお
以前ブログをやってた頃は「ひかりのまち」をさんざこき下ろしたら、随分風当たりも強かったですが。


以下、全然褒めてないので好きな人は読まない事をお勧めします。


(1)
種田と芽衣子。
二人は大学の軽音サークルで知り合い、卒業した後も同棲を続けている。卒業後も種田はバイトしながらバンドを続け、芽衣子は就職OL生活。しかし我慢しながらの会社勤めが嫌になった芽衣子は会社を辞め、二人貯金で暮らして行く決意をする。
一方的に進んで行く時間と、煩悶しながらも流れる日常と、無情にも減って行く貯金の残高に不安になりながらも二人は将来を模索する。
就職もせずバンドを続け大人になりきれない種田と、不安定な日常から不安にかられる芽衣子。
悩みながらも「二人生きて行く為の答え」を見つけたその日、種田は交通事故にあい、二度と帰って来ない。。


(2)
例えそれが険しい道でも僕は僕の道を行くんだ


種田が死んでも世界は続く。
空っぽになった芽衣子は、どうしようもなく湧き上がる葛藤にのたうち回りながら、欠落した穴を埋める為の何かを探す。しかし何も見つからない。
しばらく経ち、種田の父親が種田の荷物を取りに芽衣子の元を訪れた。種田の父に種田の影を見る芽衣子。
『アイツがいたということを証明し続けるのが、あなたの役割なのかも知れない』
芽衣子は、種田の残したムスタングを手に取る。


言ってしまえば「ソラニン」は窪之内英策の影響モロって感じはする訳なんですが、これまでが「思いっきり習作(パク)」だったのから比べると良くはなって来てるんだと思う。
あさのの場合、作画に関してはデビュー当時から安定している(というかその辺も漫画文化が整備された環境下の現代漫画作家っぽい所であって)んだけれども、オリジナリティの欠落っぷりに関してはまぁ変わらず、ではある。
そういうのも『アイデアが飽和状態の現代作家ならでは』って言ってしまえばそれまで。
お笑いだって今の若手はデビューしたてでもネタはきっちり作ってるしクオリティは高いけども、オリジナリティって点では落ちる。


今作の骨子は、基本「アイデン&ティティ」なんだけども主人公が死んでしまう事によってその『日常を維持し続ける事と夢との折り合いの付け方』ってのを途中投げ出した形になってんのが、少々据わりが悪くはある。
『アイデン..』はそこにある程度の決着をつけてるから名作足り得た、と思えるんだけども。
出て来る人間が悉く社会に順応出来てない、と言うか皆不満に思い、不安に思ってる人間ばかり出て来るってのも『漫画内のパラダイム統一』って事では常道なんか。

朝日は いまだ 白くまぶしくて
俺はおれをとりもどすのをじっと待ってる
だんだんクリアになってゆく 頭の中の思い出が遠ざかる
さあもう目を開けて感傷のうずまきに沈んでゆく俺を
まぼろしにとりつかれた俺を
突き飛ばせ そしてどこかに捨てちまえ

ロック=青春、なんて誰が決めたんだか。
確かに火の玉ロックの時代から、大不況の中『ANARCHY IN THE UK』をジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)が歌いカウンターカルチャーの御旗として祭り上げられた時代から、向井秀徳の言うように『ロック=焦燥音楽』であり、若さ故の有り余るルサンチマン、『将来への不安、やるせなさ、憤り』を『青春』と位置づけるのは容易。
ブルーハーツが『青春』を歌い、今また『サンボマスター』が焦燥を歌ってるんだから、結局時代は巡ってんのか。
変わらぬ方法論、繰り返される諸行無常


作品の構造を見れば『種田=大人になりきれず社会との折り合いがつけられない男子』代表像で、芽衣子が『不安を抱えながらも社会との折り合いをつけ、大人になろうとする女子』代表像、って感じ。この二人を同棲させ、その心理的なすれ違いやなれ合いを描いて行く展開、ありがち。
その中、種田が事故死し、それこそ『サマリア』みたいに『故人の意思を次いで』芽衣子がムスタング(やっぱ日本はチャーの影響だか..最近はジャガーとか多いけども)手に取ってバンドを始める。
「社会との折り合いをつけられないまま死んでしまった種田の夢」に芽衣子が寄る形になってる。
つまりここで日常に『種田の死』ってのがあるから一巻からの『現実社会/夢(音楽)』という対立構造が『種田の死(日常)/夢(音楽)』にすり替わる。
それまでの話しでさんざ描かれて来た『減って行く貯金』だの『就職、社会』だのと言った『日常、社会との折り合いの付け方』が置き去りにされて全て『種田の死』になってしまう。
元々の話しの構成が『対立項との折り合いの付け方』だった訳だから『社会との折り合い』を付けられなかった種田の話は途中終了で、ある程度社会に折り合い付けてる芽衣子の『種田の死との折り合い(融和)』って言う流れになる。
こっからは『少女、ギターを弾く』。



で、芽衣子はバンドを始めて、最終的なカタルシス、『リンダリンダリンダ』『ロッキンホースバレリーナ』『アイデン&ティティ』でもお馴染みバンドものの定番『ライブシーン』に突入して行く、という構造。
ライブシーンの『歌は描かず歌ってる姿だけを書く』ってのは漫画『BECK』で確立された定番。


なんか大人になるとか未だによく解ってない中途半端な「大人子供」な俺とかは、こうやって、よく晴れた土曜の午前中からTOOLだのZUTONSとか聴きながら漫画の感想とかふらふら書いてる訳で、それでも日常は続いて、夢とかすり減って見えないけど、この手の漫画だのカルチャーだのって言うのは『同時代性』ってのが大事で、やっぱり『シンパシーを感じるか否か』って部分は大きい。
自分にとってのシンパシーの対象は『ブルーハーツ』だから、やっぱり同じ方法論を繰り返す『サンボマスター』のあざとい手法ってのは賛同出来ない部分が大きいし、こういう『ソラニン』みたいな漫画も構造見ながら読んでしまう。
自分が『ロッキンホース』とか『アイデン』とか『リンダ』とかの構造を見ないでハマるのは大槻とか監督が、ある程度の同時代性を感じる(随分と年上の筈だけど)からだろうし、あさのいにおに同時代性は感じない。。
やっぱり若書きな手法が見えてしまうってだけなんでしょう。
だから泣けない。
ロックとか言われても「は??」って感じる。


80年代後半生まれ〜くらいが同時代性ドンピシャなのかな。。
感性そんなに変わらん筈だが。
こういうのって些末な差異が大きいのかも知れんけど。
というか個人的にこういう『青春バンドもの』っていうのを読み/観過ぎてるってけらいはあるのかも知れない。
それにしてもネットでの評判宜しすぎて..なんとも。
『天才』とか言われるとちょっと。。
違うだろと言いたくなる。


だからこの作品が良いとか悪いとかは、その人の年齢とかルサンチマンに依る。
サンボマスターとか好きな人なら楽しく読めそうな。
オレは好きじゃあ無い。
そんな感性だってある。

このレコードを君は嫌いって言った
この曲を笑いながら ヘンな歌って言った
あの曲をいま聞いてる
忘れてた君の顔のりんかくを
ちょっと思いだしたりしてみた