CLOVERFIELD/クローバーフィールド HAKAISHA 2008米


視点が違うと当然、見方も変わる。
「女性が襲われてるのにビデオを撮り続けてるなんて不自然」
だとか
「仲間が死んでもビデオをまわし続ける事にリアリティーを感じなかった」
とかの意見にはかなり違和感がある。
フィクション作品におけるリアリティとは?ってのが理解出来てないと意味をはき違えてしまう。


エンターテイメントを前提として制作されるフィクション世界内で描かれるリアリティは当然、画面の前にいる「観客」を意識して造られる。
観客がいるからこそエンターテイメントは成立するのであって。
女性が襲われてるのにビデオを回してるのはそこに「観客」の視線があるからだし、仲間が死んでもビデオを回すのは仲間が死んでもそこがエンディングじゃないからでしかない。
観客を全く意識しない無責任なリアリティと、エンターテイメントを造る前提として観客を意識して造られるリアリティとの違い。
そこに差異があるのは、当たり前の事。
リアリティ偏重して作品のエンターテイメント性を下げ観客を意識しない作品が優れてる訳じゃあ無い。


どうしてカメラを回すのが主人公じゃないんだろう?
完全主観主義で終止描いても良かったんじゃないだろうか?
でも、それは「好きな女性を救いに行く為に戦争に突っ込んで行こうとしてる男が一人カメラを回すのには違和感がある」って事を意識したのかも知れないし、主観映像だけで構成した場合の「画面の中に主人公が存在しないまま映画を終止描く事のエンターテイメントとしての弱さ」だろうし、だからつまるところ「主人公らが逃げ惑う姿を第三者的に撮る為」てのが第一義なんだと思う。


この映画のキモは巨大な○ジ○やレギ○ンじゃなくって、
「逃げ惑いながらも果敢に進んで行く主人公ら」
の部分こそ重要なんだろうし、だからこそビデオはいつまでも回り続けるし、しかしビデオが○ジ○の姿をまともに捉えるのは最後の最後までお預けになる。
何を見てどう捉えるか。それが問われる。
映画は、何も考えず惚けて観てれば面白いってもんじゃない。


未見の人には「観ても良いけどでかい画面で見るときついよ」って言う。


....んでこっから下はネタバレで書きますのでご注意









ゴジラこそ我々日本人の上に覆い被さっている水爆そのものではありませんか

個人的に気になったのはゴジラをイメージしながらもイデオロギーの無いあの存在だと思う。


アメリカの行った水爆実験によりビキニ環礁の深くより蘇った「核兵器の申し子」
日本人の「核アレルギー」の具現化した姿であり、「核兵器」のメタファーであり、「戦争」や「驕れる人間への鉄槌」ともとれる存在。
それが「ゴジラ」という怪獣のイデオロギーだし、そのイデオロギーが「ゴジラ」を唯一無二の存在にしているし、他の怪獣と一線を画したした存在になっている部分なんだろうと思える。


ところがこの作品に登場する怪物にはそういったものが感じられない。
謎の存在。
謎のまま現れて、謎のまま終わる。
まるで「LOST」がシーズン1だけで終わってしまったみたいな。
「あの島は何だったんだ?!」ってことに一切答えないまま終わってしまったような。


個人的に牽強付会するならあのゴジラもどきは「アメリカを襲うテロリズムのメタファー」ってのが良いと思う。
ゴジラが「水爆」のメタファー的存在であったように。
「9.11」のメタファーであり、あのレギオンもどきが「細菌兵器」のメタファー。
アメリカが病む切っ掛けになった9.11。
だから女性はレギオンもどきに噛まれ血を吹いて死んでしまったし、ゴジラもどきはビルをなぎ倒し暴れ回る。
しかし、もし暗喩が合ってたとしてもちょっと意味付けが弱い、あの怪物だと。
もっと露骨な感じでも良かったんじゃなかろうか。
9.11を匂わせながらも言及はせず「わかる人だけわかって下さい」っていう投げっぱなしジャーマンはちょいエンターテイメントとしても、メッセージ性でも今ひとつなんじゃなかろうか。


主人公があそこまで必死になって女性を救いに行く、って理由に感情移入しづらいのが難点か。
あと、前半のパーティ場面がちょっと長いってのも今ひとつ。