茶の味/2003日本


平和な村、を舞台に春野家の人々の日常を描くって内容の映画。
基本小ネタとかなんて事は無い日常を面白げに描くってヌルさは三木聡なんかに通じる。
春野家の長男の片思いだった女の子が転校して行ってしまう電車に間に合わず、遠くから電車を眺めていたら額から電車が飛び出て銀河鉄道999よろしく空の彼方へ消えて行った後は、額にぽっかりと穴が開くって「比喩的表現をヴィジュアル化して見せる」って言う技法はD・E・ケリーの海外テレビドラマ「Ally McBeal(アリー・マイラブ)」とか、実写映像をなぞるようにしてアニメと実写の中間(現実レヴェルと意識レヴェルの中間層)で描いた半アニメ映画『WAKING LIFE』なんかでも使われていた技法ではあるし、今川泰宏演出なんかにも類似するかも知れない。
ただそういう技法を使って巧く見せるかってのは監督の手腕に依るし、石井克人の「比喩的表現のヴィジュアル化」は非常に巧くってシュールな作風や世界観に非常に合っているし面白い。
キルビル」だったり、「下妻物語」「ドーベルマン」とか作中にアニメを使用したりするミクスチャーな感覚は、最近の流行じゃないだろうか。


例えば次女が逆上がりに成功すると少女の後方でヒマワリが咲いて、咲いたヒマワリがどんどん大きくなって行って少女を包み込んで、村を包み込んで、日本を包み込んで、地球を包み込んで、宇宙を包んで、ってヴィジュアルがあるんだけど、それって「逆上がりが成功して少女が一つ大人に成った」って気持ちの「ヒマワリ=達成感」の比喩で、その気持ちが少女の内的世界=内的宇宙の中で広がったって言う事の表現だったりとか。
全般的には小津的な映画なのに、本来役者の演技なんかでしか見せる事の出来ない『感情』と言うものの表現をヴィジュアル的に見せるって新しい目の演出を使うってのはそれだけでもなかなかに面白い。


少女が見る「自分を見る巨大化した自分」っていうのはやっぱり諸星大二郎の「ぼくとフリオと校庭で」の巨大化した自己、がルーツっぽかったり。
ちなみにエヴァも同じルーツだったりする。。


アニメパートは、明らかに板野サーカスをイメージしためくるめくカット割と、漫☆画太郎あるいは羽生生純ばりの劇画タッチ濃厚キャラを崩しまくった重力無視の金田跳びを多用していてほんと「銀河旋風ブライガー」のオープニングみたいなアニメーション。
↓劇中のシーン。


改めて観ても板野サーカスは革新的。。


劇画的なゴリゴリした輪郭線はキルビルなんかで使われてた描画線に近かったりとかかなり監督のこだわりが強い。
作ったのはマッドハウス小池健
経歴は、川尻善昭作品に作画で参加していたんだそうで、劇画っぽいタッチもそれで納得がいく。
川尻演出、と言うと光と影を巧く利用した(影がべた塗りだから極端に色差が出る)クッキリした画の見せ方で、そういう影響も小池作のこのアニメパートにも垣間見える。


出て来る役者陣もなかなかに豪勢で長男が片思いの転校して行く女の子を相武紗季が演じてたり、和久井映見だったり、草薙剛だとか。アニメ監督役で庵野秀明が出てるってのも面白い。
でもアニメパート製作はガイナックスじゃ無くてマッドハウスだけれども。


元アニメーターだった祖父の残したパラパラ漫画は、普通の映画だとあのパラパラ漫画にはもっと祖父の個人的な思いが強く込められた『インパクトの強い』人生の印象的な場面を漫画にする、って演出の選択肢もあるのに、祖父が描いていたのはそれぞれ家族各人の日常の一コマだった、ってのも面白い。
父親(三浦友和)に残した漫画は『転んでも走って行く』、長男には『自転車でよろけながらも走り続ける』、次女には『逆上がりを続けて遂に成功する』。
それぞれのテーマは『続いて行く事』の中間であり、走り続ける事だし、前向きに負けずにどこまでも進む、ってメッセージなんでしょうか。人生は未だ終わってないし、綿々と続く。
どこまでも走れる限りは走り続けられる。
楽しい夢を観て眠るように死んだ祖父の顔ってのも、心の中では未だ走り続けてたのかも知れない。


山は生きている。
自然は生きていて、世界は生きていて自分も生きていて、未だ続いて行く。
なんて事無い日常でも綿々と続く明日は変わらず訪れる。
自分にとっては大きな悩みでも巨大な世界の中では、ちっぽけな一つでしかない。
狭苦しいビルの間では見えないモノが、雄大な自然を前にするとそれが思い知らされる。
平坦な日常はどこまでも続き、オチなんて無い。
『茶』ってのは特別な飲み物じゃないし、際立った美味でも無い。
そういう『普通』の味。