蛇のひと/2010

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部長(國村隼)が自殺した日に課長(西島秀俊)が失跡した。
課長が何か真相を知っているのかもしれないと、会社の命令で部下である主人公(永作博美)は、彼を探し始める。
しかし、過去が明らかになっていくにつれ、よく知っていたはずの課長の人物像が分からなくなり「一人の人間」という迷宮に迷い込んでいくのだ…。

http://www.wowow.co.jp/dramaw/hebi/index2.html
wowowドラマ「蛇のひと」を観た。



「悪意」と言うモノについてよく考える。
映画「ダークナイト」でクリストファー・ノーランが描こうとした「世界が燃えるのを見て、喜ぶ者」
「リング」の貞子や「呪怨」の伽椰子は、悪意が純化した存在として描かれている。
オーメン」のダミアンは「人の敵」として。
他人の不幸を願い、存在を疎み、傷付けたいと、消えて欲しいと、死んで欲しいと思う気持ち。
物語の中でそれは象徴的なキャラクターとして描かれ、残酷に残虐に人の尊厳を踏みにじり貶める。
そして、それは多かれ少なかれ誰の中にもある。


失踪した課長の知り合いを訪ねて回るうち、それらの知り合いは皆一様に不幸になっている。
それも課長のひとことが原因だと思えてしまう。その発言をした時には悪くは思えなくても、結果的に不幸になる。
知り合った人間を不幸に貶める悪意。
露骨に傷つき、挫折するほどでは無く、本人らが気づかず、自分の責任だとしか思えない程度に。
ピタゴラ装置ルーブ・ゴールドバーグ・マシン)を連想させる。
最初のドミノを倒す、その切っ掛け。普通、倒れたドミノの先にどんな仕掛けがあるのかは見えない。
人生の先は不過視。
でも、もしそれが見えたとすれば?
その一言を言えば「多分、相手が不幸になるだろうな」と思える一言。最初の、ドミノの一つ。
「二人で働けばきっと何とかなる」と新婚の二人にけしかけ、結果ローンで苦しみ夫婦はすれ違いになり、
浮気相手と揉めた男には「三人で一緒に住め」とそそのかし、今は愛情すら麻痺して三人で暮らす日常。


そーいう着想は非常に面白いと思う。
役者陣も永作博美も相変わらず魅力的で、ほんと芸達者だなぁ、としみじみ。
國村隼西島秀俊など役者陣も渋くて、ガッツリした演技を見せる。
演出もそれほど悪くも無いし、ところどころ「他の監督だったらこのシーンもっと良い撮り方するかもなぁ」と思わせる部分もいくつか散見出来たが、西島秀俊が空を見上げたままアクセルを踏み込むシーンなんかの一連のシークエンスはかなり巧かったし、オープニングの「階段を上から見下ろしたショット」が蛇のとぐろを思わせたりするのも暗喩的で面白かった。
ただもう一つ欲しかったなぁ、と思うのは贅沢かも知れないけれども。
「悪意」と言うモノが比較的ヌルめで、最後の劇団ひとりのエピソードなんかは後半にかけての救済として存在するのだけども、徹底して落としても面白かったんじゃないかな、と思わなくは無い。
西島秀俊が永作の彼氏のところにいた時点で、彼のまき散らす「悪意」は無意識ではなく「故意」だと描いたんだし。
そっから一気に憑き物が落ちたように救われてしまうのは少し残念な気がした。