うたかたの日々/岡崎京子 2003


うたかたの日々

うたかた 【泡沫】
(1)水面にできるあわ。みなわ。
(2)消えやすくはかないことのたとえ。

うたかた-の 【〈泡沫〉の】 (枕詞)
泡が消えやすいところから「消ゆ」に、また浮かぶところから「浮き」「憂き」にかかる。

 

みんな誰かを愛してるし 誰かに愛されてるんだ
ぼくはちがう
だけどぼくだって....
誰かを愛したくてたまらないんだよ



働かなくても生きて行ける資産と、善き友人シックと、良き料理人ニコラに囲まれて日々を送る青年コラン。
彼に一つだけ欠けているのは『愛し愛される』事だった。

美しい女性アリーズに出会ったのはコランではなくシックだった。
二人は恋に落ち、コランは失意に落ちる。
自暴自棄に夜の街を彷徨い出会いを求めるが、街は恋人たちで溢れ、気づけば自分の孤独を深めるばかり。自殺も考えるが結局死ねないまま嘆くしかないコラン。在る時、友人の女性の誕生パーティーに出かけたコランは、そこで一人の女性と恋に落ちる。
彼女の名はクロエ。
二人は恋に落ち、婚約を果たす。
しかし二人の幸せは長続きしなかった....。



Boris Vianの同名小説『うたかたの日々』(原題L'ecume des jours/1947)を岡崎京子が原作にほぼ忠実にコミック化した作品。
雑誌『CUTiE』で連載(1994〜95年)後に、著者がプロローグ、ラストを描き加え、全体に加筆修正したもの、なのだそうだ。
とは言え個人的に原作は読んで無いので(読む予定も無いので)この作品単品で色々と言ってみる。


真っ白な地に青い線だけで書かれた胸に傷の有る女性(クロエ)。
だらしなくガウンを羽織って、胸も隠さず涙を流して呆然と佇んでいる。
両脇に『岡崎京子』『うたかたの日々』の明朝体タイポグラフィ
非常にシンプルで流麗な飾り函(上画像)。
その中には赤いハードカバーの表紙に蓮の花。
構図は飾り函の『著者名/クロエ/タイトル』と同じで、クロエの位置に蓮が咲いている、と言う事。血の様な赤に咲く蓮の花。


扉絵はつぼみから花弁を開く蓮の花、コラン、そしてクロエ、クロエ。


岡崎京子の絵柄は、少女漫画のそれよりも背景が書き込まれ(少女漫画は、舞台セカイよりもキャラクターの内面や心理描写に重心が置かれる為に背景が白い文法が使われる傾向が有る)ディテールも細かい。
線は女性らしく細いものの、高野文子の様に漫画文法は少年漫画寄りの辺に有る様に思う。
この作品に関して言えば装丁と言い、ページの端を丸く切った断ち切りと言い、内容と言いまるで絵本のを思わせる。
大人の為のグロテスクな絵本。


60'sな世界観。ファッション、風俗。
細かい部分のディテールまでこだわって書き込んでるのは岡崎京子の十八番。
パースなんかも狂ってる部分も多いけども、先に書いたようにまるで『絵本』みたいに見える効果を上げている。
ざっくり切り貼りしたスクリーントーンの使い方も面白い。
端々に在るシュールな表現なんかはBoris Vian原作の通りらしいんだけども言葉遊び的に面白い(仏語か)ものがヴィジュアルにすれば面白いか..と言えば必ずしもそうじゃなくって、だから巧く行ってない部分も多々ある。


クロエとコラン。
コランとクロエ。
二人が結婚し、初夜を過ごし迎えた朝、(18 P76)

2人を食道にいざなおうとしたネズミは廊下でいぶしがった。太陽の光がきちんといつも通りやってきていないのだ

とある。
この一文は(17 P72)

式は恐ろしく高いものについたが彼らはうまく成功したので満足していた

に対応しているんでしょう。
つまり『部屋の華美/規模/空間=経済的余裕』は比例している、その様に作中描かれている。


そして二人はパルトルの講演に向かう際、工場地帯を車で通る、という描写が挿入される。
これには『金銭的に恵まれた二人の傲慢さ』が表現されている。
その後、友人のシックもパルトルにつぎ込み金銭的に厳しくなり税金を滞納したせいで撃ち殺されるという最期だし、クロエは最後には貧乏人の墓場に人足たちの手で荒々しく放り込まれる、という結末を迎える。
経済的に破綻し死ぬし、しかもその死は落ちぶれ果てたり惨めだったり、醜かったり理不尽だったりする。これは『悲劇的な愛の物語』とか二人の愛がどうのこうの、というよりも(そういう部分はあくまでも表面的なものであって)『ブルジョワ階級の没落物語』と言うのが実質なんだろうし、そこにこそBoris Vianのシニカルな視線が込められている様に思えた。
だから傲慢なパルトルは心臓を抜かれ死に、世界中のパルトル以外の全てに傲慢だったシックは官吏に撃ち殺される。


個人的に気になったのはコランが仕事に出、地面から生える銃の栽培に携わったという件で銃の先に花が咲いている、という描写。

これは何を指してるんでしょうか。
見方に依っては『コランが花を咲かせた』のであれば『クロエの胸の花も咲かせた』という見方も出来るし、或は『クロエの看病をするうちに花と言うものに取り憑かれた』という様な見方も出来る。
とはいえ、この件は妙にあっさりとスルーされるので重要な描写でもなかろうし、『誰のせい』でなんていう役所の不祥事の後始末みたいに『原因が分かったからって結果は変わらない』のは同じ事だろう。


ただこの物語に於けるとはなんだろうか。

個人的な深読み(というか明らかに曲解なんだけども)をすればとは『植物の性器である』という見方をする。
誰も愛さず愛された事も無い、経済的に守られた自らのモラトリアム(キリスト教的な楽園)に籠っていたコラン。
しかしクロエという女性に出会ってしまったせいで性的に『汚れ』、モラトリアム=聖域から出る、つまりは『館も清浄さを失う=汚れて行く』。
クロエの胸に咲いた『蓮』と言うものが性的な病(性病であったりとか)を表現していると曲解してみると『仕事に出たコランも(性病に)感染していた』から『銃に花が咲いた』ともとれる(P68の全裸での描写など性的に開放された人格である様な描写も垣間見える)。

とは言え、こういう美しく儚い物語って言うのは変に頭を使って(いらぬ考えで)斜めに見たりせずに素直に『報われない純愛物語り』と読むのが一番良いのでしょう。
胸に咲く美しい蓮の花、しかしその美しさに命を奪われる女性、そして彼女に魅せられ、愛し何もかも失った青年の物語。


なぜクロエは死んでしまったんです?
そんな事は知らないよ 他の話をしようよ