MY BLUEBERRY NIGHTS/2007 米


マイ・ブルーベリー・ナイツ スペシャル・エディション [DVD]



リアル鬼ごっこ」の記事を書いてたら、ついでに過去記事を引っ張ってきたくなった。
この映画が30点?!
....ま、以下映画館で2008年春に観た当日の記事。


新宿のバルト9で観賞。
春休みで混んでたけどもケータイでチケットを事前に予約して楽々着席。
どセンターの好位置でバルト9は座席の間隔が大きく高さも余裕があるのでストレスが少ない。
コーヒーに豆腐ドーナツをかじりつつ見る。


王家衛の最新作。
撮影監督がクリストファー・ドイルじゃないってのがかなり意外。
でも画面はかなりドイルの類似っぽい感じがそこかしこに。美学って点ではドイルの方が洗練されてるかなぁ、ってのは正直なとこ。
共同監督が海外ミステリ界では名高い『800万の死にざま』のローレンス・ブロックって聞いて同姓同名の作家かと思いきやあのブロックなんだそうでこれまた意外。


テーマは失ってから判る思い
取り返しのつかない物もあり、取り返しがつく物もあり。

欲望の翼』『恋する惑星』なんかでもお馴染みの連作短編形式で、パートとしては恋に破れたノラ・ジョーンズとデリで働くジュード・ロウが出会う『ブルーベリーパイ』のパートが全体を囲い、そしてそのまま旅に出たノラ・ジョーンズの視点から、レイチェル・ワイズ+『スニーカーズ』デヴィッド・ストラザーン夫婦のお話パートと『ギャンブラー』ナタリー・ポートマンのパートが描かれる。


ノラ・ジョーンズジュード・ロウのパートは、それこそ金城武とかフェイ・ウォンとかに置き換えても全然成立するような王家衛お得意の『手紙とか電話とか直接話さなくても気持ちが通いあって』『すれ違いの恋』ってのが王道のパート。
時折挟み込まれる早回しとか、電車の映像とか定番。
今回の映画を通してみると『電車』とか『車』とかが非常に象徴的に出てくる。
当然車は『自由』の暗喩だったり、電車は『過ぎてゆく時』や『変化』なんかの暗喩としても機能してる、ってのはいつもの事。
でもカリフォルニア・ドリーミングの『恋惑』と違って落ち着いた大人な感じの今作は、ちょっと雰囲気も違ってたり。
眠ったノラ・ジョーンズジュード・ロウがキスするシーンは正直『ジュード・ロウじゃなきゃ犯罪』ってツッコミを入れつつ、あのキスを受けたノラ・ジョーンズは『ジュード・ロウの事を嫌いじゃないけどこのまままた恋におちてもきっと今の自分のままじゃ駄目だ』と感じてあてどの無い旅に出る事になる。。


レイチェル・ワイズ+『スニーカーズ*1デヴィッド・ストラザーン夫婦パートは、
『自分は自由になりたかった』
『でも相手に死んで欲しくは無かった』
『でも死んでしまった原因は自分にあって』
『結果、肉体は自由になれたけれど、魂は過去に縛られたまま』
っていう単純でありがちだけども、実際的にはかなり深い。


自分の夫が飲み明かしてた酒場に現れて、周囲の冷たい視線を浴びながら酒を浴びるように呑むレイチェル・ワイズの悲しさって言うか虚しさって言うか。
やり場の無い思いと、辛さが彼女を追いつめて、『欲望の翼』の『脚の無い鳥』の逸話みたいに自由の象徴の筈の『車』に乗って旅立って行くレイチェル・ワイズは『飛び立った時点で既に死んでる』んでしょう。


ちなみに事故現場をすだれ越しに映してるシーンは『アメリカの田舎町で何故すだれ?』って違和感があるものの王家衛はあれを敢えて撮りたかったんだろうな、って意思は伝わってくる。


『ギャンブラー』ナタリー・ポートマンのキャラクターは『電話は絶対に受けない』と言いながら受けたり、『人を絶対に信じない』って言いながらもノラ・ジョーンズと二人で仲良く旅してみたり、自意識と人間としての脆さと狡猾さを併せ持ったような奔放で魅力的なキャラクターとして描かれてる。
父親の遺体を目の前にしたシーンがあったんだけども、普通なら父親の死体を見て泣き出し抱きつく....みたいな『悲しみの発露→冒頭』を描くのが普通だろうに、王家衛は『既に泣きはらした』ナタリー・ポートマンが父親の死体を前に再び悲しみがぶり返すシーンを使っていて、つまりあのシーンでは『一度非常に感情的に泣きじゃくったナタリー・ポートマン』ってのが(映画には描かれていない部分として)既にあって、しかし人間的にギャンブラーでポーカーフェイスなナタリー・ポートマンのキャラクター的には『感情の発露』という意味でピークよりも後ろの方が余程キャラクターにハマっているって判断なんでしょう。
細かい事なんだけどもああいうシーンの選択が実に巧い。


象徴的に『思いが込められたアイテム』が色々と登場する。
『受け取る人の居ない鍵』や『レシート』や『形見の車』とか。
時間が経ち、人の思いは変わってもモノは変わらずそこにある
だから悲しい。
変わってしまった事が、戻れない事が


最終的に帰って来たノラ・ジョーンズは、ヴィトンの鞄をぶら下げて『旅立って一つ成長して』『経済的にも自立して自己を確立した』女性として描かれてる。
人生の色んな経験をし見て、帰ってくる。
そしていつもと同じブルーベリーパイが待ってる。
そして今度はジュード・ロウの事を受け入れる。
失恋の痛手から快復して、一つ、二つ、幾つも成長した自分なら受け入れられるかも知れない。
幸せの青い鳥は結局自分の家にいたんだ、って。
そんな感じに。

*1:万能の暗号解読可能なチップを巡るハイテクコンゲーム映画。D・ストラザーンは盲人ハッカー役で出演