奥様はネットワーカ/森博嗣 2002


奥様はネットワーカ—Wife at Network (ダ・ヴィンチブックス)

【続きネタバレがありますので自己責任で】


久々に読んだ森作品。
「すべてがFになる」の頃は何度も読んで、犀川&西之園シリーズは読破したんだけどその次のVシリーズの中間で自分の中の長い長い(数十年に渡る)「読書ブーム」が下火になって読まなくなって。
で、また最近読書ブーム到来って事で色々仕込んでます。
最盛期(学生時代)は、一ヶ月に六十冊は読んでたんですけどね。


森っぽいポエトリー&ミステリーなお話。
作中のフワッとした雰囲気と絵本風でファンタジックなコジマケン星新一作品みたいな挿絵も相まって、ちょっと特殊な雰囲気を醸し出してる。
その割に中身はドロドロとした通り魔殺人事件、っていうこの異物感が森っぽいといえば森っぽい。
犯人の独白も、キャラクターも、さばさばとして無機質な雰囲気があるのも理系の森の感じがよく出てる。

文系作家だと犯行の動機と言い、内容と言い、もっとドロドロした感情の発露のある狂気に憑かれた犯人像になってしまうと思うんだけれど、真賀田四季もそうだけが「犯行を犯す凶暴なキャラクターとそれを俯瞰して見る冷静で落ち着いたキャラクター像」を併せ持つようなキャラが犯人として設定される。
作家にとってそういうキャラクターこそがリアリティを持ち得るのか。そういった嗜好か。


叙述トリック自体は、「スージィ」と「三枝」それぞれのパートでの、お互いの呼称の違和感に気付けば先読み出来てしまう部分で、個人的には
「なんでサエグサは妻としか呼ばないのかな?なにかこの文章が気持ち悪い」
と思いながら読んでいたので「驚愕!」という印象は受けなかった。
最初は「別のサエグサが存在するのか?」と思いながら読んだりしつつ。


ポエトリーの入った通り魔事件、で叙述トリックが無ければただの犯罪小説でしかない訳で。
作品のスタイルから使われるトリックを類推出来てしまうのはミステリー読みの悲しいところ。
そのミステリー読みの「類推」を越えてトリックを展開してくれると名作になるんだと思うんだが。
我孫子武丸殺戮にいたる病」然り、殊能 将之「ハサミ男」然り。


やっぱり森博嗣って人は作家としては「キャラクターものが上手い」作家なんだろうと思う。
だから一品、単発ものの読み切りよりも、VシリーズとかXシリーズなんかの「トリックよりもキャラクター」が読み応えのある作品の方が向いてる、と昔から思ってるし今回もそう思えた。
作中挟まるポエトリーも成功してるかと言えば、雰囲気を作る為に成功してる部分もあれば、今ひとつ冗長にさせてしまう部分もあるし、一長一短、バランスの問題かもしれない。

多人数の三人称視点から書く物語は、散漫になってしまいかねないところを登場人物の数を押さえ、1つ1つのキャラクターを確立させて書き分けていたのはさすが森博嗣と言ったところなんだが、出て来るキャラクターが全て「いかにも理系です」と言ったキャラばかりなのは作家が出てしまうから仕方が無いと言えば仕方が無いところだけれども。
端正で計算された物語は書けても、森が血で血を洗うヤクザ小説とか不良ものは書けないものな。