SAMARIA/2004韓国

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【続きネタバレがありますので自己責任で】

すべてさ
人生とか
おっさんたちとは違ってさ
普通に俺たちは絶望してるんだ

黒田硫黄「茄子」

親友のヨジンとチョエン。
彼女らは海外旅行の旅費を稼ぐ為に援助交際を始める。
この時、ヨジンは客との電話交渉、金の管理、ラブホテルの前で監視。
実際に寝るのはチョエンという役割になっている。
これはチョエンが援交を言い出し、ヨジンが巻き込まれた、と言う事でもあるが、実際面をヨジンが行い、チョエンは自身の台詞にもあるように「セックスによって喜びを与える事に楽しみを見出している」ともとれるし、しかしそれが実際面を伴わないのはそれが「自分の中で、売春と言う行為を行う際、セックス行為のみに限定する事によって罪悪感を伴わず(チョエン自身の言う)バスミルダのような存在になり得る」と言う事を示す。
だからこそ作曲家と寝たとき、チョエンは売春の相手に恋をし、死に間際に際しても会いたいと願う。


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しかし援交の最中、ラブホテルに警察がやって来る。
窓から飛び降りるチョエン。
頭から血を流しアスファルトに転がったチョエンをおぶり、警察から逃げ病院に運び込むヨジン。
チョエンが飛び降りる時、悲壮な表情もせず、笑ったまま飛び降りるのも彼女の『夢想に生きる』面を表しているのかも知れない。
意識を一瞬取り戻し、枕元のヨジンに援助交際相手の一人..作曲家の男に会わせて欲しいと願うチョエン。
ヨジンは慌てて作曲家の元に向かうが、作曲家はヨジンをなだめ、ホテルに連れ込む。
事を終えて、二人が病院に着いたとき、チョエンは既に事切れている。
笑ったままの死体。
夢想に生き、恋に落ちたチョエンにとって作曲家は特別だった。
でも、作曲家からすればただの「金で買った女子高生」の一人に過ぎない。


そしてヨジンはチョエンがこれまで援交で寝た相手に会い、同じホテルでセックスし、受け取った金を返す。
ヨジンの中での「彼女だけに援助交際をさせていた後ろめたさ」「自分がセックスしている間に親友が死んでしまった」という慚愧の念が代謝行為として彼女にそれを行わせる。
自分を傷つけ、汚し、貶め、汚れた金を返す行為は彼女にとっての唯一の贖罪だろうし、救われる道だろう。
誰が、誰の為に、誰をもてあそぶのか。


ヨジンは母親を既に亡くし、父親ヨンギと二人暮らし。
刑事をしているヨンギはある時、事件現場の窓から向いのホテルの一室で男と一緒に居る娘の姿を見つける。
衝撃を受けるヨンギは、援助交際の相手を殴る。
ここで娘をしからず、相手の男に怒りが向かうのは、監督の意図が「援助交際は売春をする側だけが悪い訳ではない(買春の罪)」という事でもあるし、娘の事が理解出来ず怖いからだろう。
母親が居ない父子家庭であり、大切にして来た娘にキリスト教的な奇跡の話ばかりする父親。


そしてヨンギは援助交際の相手を石で殴り殺してしまう。
ヨンギはヨジンと一緒に母親の墓参りに車で向かう。
お互いに秘密を言い出せず、旅をする親子。
ヨンギは死んだ妻の墓の前で泣き崩れ、ヨジンは夜一人で泣く。
辿り着いた川縁。車の中で眠る娘。
娘は父親に殺され、埋められる夢を見る。

この水を飲む者は誰でもまた渇く。
しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。
私が与える水は人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る

川辺での親子のシーンでヨジンは夢の中で父ヨンギに依って絞殺され土の中に埋められる。
これって言うのは『輪廻転生』といったような仏教的なイメージが強い。
キリスト教的なタイトルの映画の中の仏教的な思想。
考えてみればヨジンはチョエンに成り代わって..つまり『生まれ変わり』として死んだチョエンの『業 KARMA』を果たす行為、と考える事も出来る。
父親ヨンギは、娘の援助交際の相手を石で殴り殺す..と言ったようなカットは人類最初の殺人..旧約聖書の『カインとアベル』なんかを想起させるイメージだし、娘に話す『奇跡の逸話』のキリスト教的な話。
最終的にヨンギは娘の罪を許し、自らの罪を背負って警察に出頭する。その行為は矢張り仏教的、と言うよりも『罪を憎んで人を憎まず』なキリスト教的な思想だと捉えられるかも知れない。


目覚めた時、父親は川縁に簡易な自動車の練習用のコースを造っていた。
練習用コースを使ってヨジンに運転を教えるヨンギ。
娘に自分で運転する事を教える、ってのは明らかに「一人で生きて行く術を伝える」事の暗喩でしょう。
自立を促す、自分の翼で跳ぶ為の手管。
水辺って言うのもキリスト教的な「復活」と観るか、ギリシア的な「冥府」と観るか。
キリスト教的モチーフが好きなキム・ギドクだけにやはりキリスト教的解釈が正しいかも知れない。
神聖な青い色彩といい、どちらともとれるんだけれども非常に象徴的なシーンだと思う。
そして父親を逮捕しに来る警察の車。
黙って連行される父親、走り出した警察の車の後を追う娘。
しかし覚えたての運転では追いつく事は出来ない。

この映画は大きく三部に別れ、それぞれに
「バスミルダ」
サマリア
ソナタ
と各タイトルがつけられている。

・チョエンとヨジンが援交を始め、チョエンが飛び降りて死ぬまで「バスミルダ」

・ヨジンが死んだチョエンに成り代わり次々男と関係を重ねる「サマリア

・そしてそれに気付いた父親の物語「ソナタ


「バスミルダ」は娼婦の名前で、寝た相手がキリスト教に改宗するのだと言う。
サマリア」は地名で、かつてキリストが水を求める為に訪れ、井戸の側で出会った異教徒の女はキリストに感化されキリスト教を街に流布する、と言う話。
『バスミルダ』と『ソマリア』、この二つのタイトルに共通して『異教徒の(キリスト教への)改宗』を指しているのは実に暗喩的。
『サ(聖母)マリア』ともとれる、ってのは読み過ぎのような気がする。
チョエンは援交相手に慈愛(自分の身体を与える)を授けるのを喜んでいたようだけれども。


誰も救われず、誰も誰かの為に生きては居ない。
男どもは女子高生に金を払って身体を買い、
チョエンは自分の夢の中で死に、
ヨジンは自分の罪悪感から男と寝て、
ヨンギは娘の為でなく自分の中の怒りに動かされ援助交際の相手を殺す。
すべてがすべて自分のため。
歪んだ感情が生み出した連鎖の果ても、また歪んだまま。

嘘を嘘と知りながらも本当と信じてしまう、
その矛盾に満ちた心的構造はいかなるものなのだろう?

舞城王太郎「暗闇の中で子供」