NODA MAP 贋作・罪と罰

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江戸末期、江戸開成塾の女塾生三条英(松たか子)は、金に困窮し業突く張りな金貸しの老婆(野田秀樹)を斧の一振りで殺害する。しかし老婆一人しか居ない筈の部屋に、偶然老婆の妹が居合わせ、犯行を見られた英は老婆もろとも殺害してしまう。
英は逃亡に成功、犯行は発覚する事無く、英は罪を逃れるかに思われた。しかし捜査官、都司之助(段田安則)は英に疑いの目を向け彼女を徐々に追いつめてゆく..。


人間はすべて凡人と非凡人との二つの範疇に分かたれ、

非凡人はその行動によって歴史に新しい時代をもたらす。

そして、それによって人類の幸福に貢献するのだから、

既成の道徳法律を踏み越える権利がある。


ロシアの文豪ドストエフスキー罪と罰を日本の幕末に舞台を置き換えた野田秀樹演出の戯曲。
wowowで放送ったので観てみました。

これは面白かった。
って言うのは場面転換の興味深さだったり。
少し判りにくいけれど、説明を。


ステージはアイランドキッチンみたいに真ん中にあって一段高く、周囲をぐるりとコロッセオみたいに観客席が囲んでいる。
特にセットらしきものは何もない。
そこに役者は、虚構のセットを表現して見せる。
例えば、英が老婆を殺して逃げるシーン。
ステージの上には数本の棒だけが立ててある。
観客に対して役者は四本の柱の間に見えない『壁』があるように観客に見せ、『柱』と同じ棒でも『扉』として役者が扱えばそこに『扉』が出現する。
英は急いで老婆の小屋を後にする。
すると舞台に多くの役者が椅子なんかを手に上がり即席で『市中』を表現する。
人ごみ、喧噪、物売りや商店の軒先が一瞬で現れる。
先ほどまでの家の「壁」や「扉」は別の家の「壁」になったり、「屋台」になったりする。
映画の『ドッグヴィル』で地面にチョークで家が書いてあれば、それが役者には壁が存在する小さな街だったりするのと演出的には近い。
落語家が扇子を箸に見立ててソバをすすればそこにドンブリが見えるし、くわえて吸えばそこにキセルが見えるのと同じ、と言えば良いか。
舞台と言う狭い空間で(ドッグヴィルは倉庫を改造しただだっ広い空間だから)、幾つもの場面転換を表現するのに即席の持ち道具幾つかであっさりと仮想の空間を見せる技法は巧いなぁと思った。

後半、英が才谷梅太郎(古田新太)と、英の妹が溜水石右衛門(宇梶剛士)と対峙する『同時性を持つ』二つの場所を同じ舞台の上で『明/暗』で交互に見せたりとか、演劇技法的にも面白い。
舞台にカーテンが現れ、舞台上を仕切ってみせて、空間の隔絶を表現してみせたり。
舞台の上に一面しかれたエアキャップシートが雪を表現し、その真ん中で松たか子は演技をする。
その遠く離れたところに居る(設定の)古田新太は、舞台中を逃げ回り、エアキャップシートの下を這い回り逃げる、なんてのもあった。


松たか子の『女優』というか『役者』の演技も気合い入りまくりで、血管切れそうな程激昂し嗚咽する場面とか、鬼気迫るものがある。
それを受け手の古田新太のシーンも普段の『大阪のエロオヤジ』さを微塵も感じさせない貫禄。
結構、一本調子に声を張って演技はとても過剰、なんだけどそれを過剰と感じさせないピンと張りつめたテンションと雰囲気。
テンポのある展開とスピードは飽きずに最後まで魅せる。


本当の罰は人の心にこそ下る。
罪人は逃げ続ける事で罰を受け続ける。
だから贖罪も心にこそ与えられなければならない。